私の中のタジオと、言葉の鎖


半分、青い。で出てくる「タジオ」という言葉。

「タジオ」と聞くと、壊れそうで、色気のある繊細少年なイメージがある。

Troye Sivanを見ると思い出す。耽美的。声と佇まい

いろんな曲の気持ちになりきって歌うとか、

歌の世界にはすぐ入り込めるんだけど、

その反動か、実世界では、割と”石”のようになっているときがある(笑)


非現実のほうに、感情を取り置きしてるのか。

歌がないと、チャッカマンが見つからないというか。

ま、歌のフィルターを通すと心を表現できるのは、誰でもそうか。

それこそ音楽の魔法だねってことで笑


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さて先日、爆笑問題と斎藤環さんの古い本をちらほらとめくっていて、

太田光さんの序章にグッときまして。


「言葉に比べ、心はなんと自由なことか。

言葉にすることは心を区切る作業だ。

一つの感情を言葉にした時、その言葉に収まりきれない

どれほどの感情が失われるのだろう」


と。だけども、


「人間は動物として備わった感覚を失う危険を冒してでも

言葉を使って生きるほうを選んだ」

「言葉は思考を限定するが、その一方で、

言葉は思考の幅を広げることを知っているからだ」


(引用:「ひきこもりでセカイが開く時」より)



「心を区切る」って感覚、わかるなあと。

いつも思考や感情を言葉にしようとして、

そんな作業ばかりを続けていると、

逆説的に、心そのものや感覚が、不確かで曖昧になっていく瞬間がある。


意識的に、言葉にしないことに努めていないと

すべてを文字化しようとするコンピュータみたいになってしまって、

どんどん「今ここ」を生きられなくなる気がする。


言語化が最優先になると

ボディランゲージも表情も視線も、稼働を控えるような。

それで言葉だけのコミュニケーションでどうにかしようとすると

結果とても不十分で、「伝わらない感じ」を味わってしまう。


「五感を澄ませて、体で語れよ」てね。

その場は無心に感じて、

しばらくして思いだして言語化する…て順番なら健康的かもな。



今年はなんだか体の根源的な不調が出ることが多くて、

ちとメンテナンスに努めてるのですが

言葉の鎖を少し解いてあげることも、健康への一歩かも

しれにゃいですね。(要するに考えすぎ)

考えすぎて、悩んでこそのタジオ