王と戦士はセットで支え合う。
タロットみたいだね。
ともあれ、登場人物は皆それぞれの人生があって、事情があって、
いろんな局面で、味方になり敵になりの選択をする。
でも分かりあえなくても、尊敬や絆は生まれる。
特定の人物に「どうしてそれするの〜」って思うことがあっても、
見方を変えれば、
「でもそうよね、この人はこうする理由があるよね」って
心の動きを理解できることが殆どなんだけど。
(最近、従者の気持ちになるのも得意になってきた)
でもね、中にはどうしても理解できない輩もいて(笑)。
ただただ卑怯極まりない、弱虫なのに尊大で、
劣等感ばかりで、邪魔をして、世の中に必要な人を殺めたりする。
あまりに卑怯なもんで、最後には主人公に
「馬の糞だらけの馬小屋がお前の居場所だ」なんて言われたりして。
どうにか理解しようと思って、
その人物の人生を振り返ってみた結果、
「その器がないのに、王の息子に生まれてしまった」
ことこそが、彼の不幸だったのだろうな・・・と。
最初から馬の世話係に生まれていれば、
あそこまで卑屈にならずに済んだのかもしれず。
大好きな酒と女に明け暮れる人生で、終われたのかもしれず。
使命や目的を果たさねばならない立場に生まれついちゃったのに、
彼には「人生の目的」がなかった。
王は導いてやるべきだった、と後悔していたけれど。
高いところに生まれちゃったもんで、
確固たる目的を持ってる人物や、
それをカタチにできる才覚や実力のある人物ばかりに囲まれてたことも不幸で。
そのおかげでいっそう、卑屈さを増していった気がする。
かといって、自分の器も弱さも認められないし、
自己顕示欲や「認められたい」という野望も捨てられない。
ただただ「卑怯」でいることでしか存在感を発揮できない。
(かなり可愛いレベルでいえば、スネ夫の立ち位置なのだろうか)
自分の器を自覚できていれば、
それなりの生涯を終えることもできただろうに・・・と。
(↑この人は主人公のほう)
長くなったけど、
そんな流れで、「分際」について考えたのです。
自分の「分」を知る。ことは、善き人生のために一番必要なのかもしれないと。
自分にできることを認め、できないことも認める。
それを見極めるのは、本当に難しいのだけど。
それを知る「時期」も、人それぞれなのだろう。
必要以上に「できない」ほうに針を振りすぎても、消化不良がずっと残るだろうし、
必要以上に「できる」ほうに針を振りすぎても、果実を味わえない(上に周りも不幸にする)人生となってしまう。
後者だと、上で書いた彼のようになってしまう。
彼も「分際」を知っていれば、あそこまで軽んじられ、憎まれた上に、
誰からも惜しまれずに殺される、ことはなかった気もする。
(まあこの人のせいで何人も死んだけど)
人生の面白さもあるのだろうけれど。
もしかしたら、彼は平坦な人生が嫌で、
自分の「分際」を見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
本当は、分かっていたのかな。
心から信頼しあえる友が1人でもいたら、笑顔で死ねた気がするけどな・・・。
と、ここまで深読みをして楽しむ優良顧客(笑)
***
宗教が特に重要な時代なので、
Pagan(異教徒)という言葉を、千回は聴いた気がする。
でも宗教って、見た目や儀式が違っても、
言ってることは基本的に同じな気がする。
「人間は善悪、両サイド持ってるぞ」ってこととか。
「死んだら、別の地でまた会おうね」ってこととか。その地が違うだけで。
そして、死生観。
それはつまり
「自分らしく生きよう」ってことなのだろう
0コメント